長野高校吹奏楽班による「ぐるりよざ(伊藤康英作曲)」の初演は、1991年の定期演奏会でした。1991年というのは、小林泉先生が長野高校に着任された年です。私はこの年3年生で学生指揮者をしていました。英語の夏目先生の同期です。
私たちにとってのミッションは、コンクールで東海大会に「戻る」ことでした。1年生の時は東海大会で銅賞、2年生の時は県大会止まりだったためです。私たちは、コンクールの曲選びで躓かないこと、コンクールの自由曲にする曲を定演でも演奏することを方針として、前年のうちに「ぐるりよざ」を選びました。ちなみにこの方針自体は当たり前と言ってもよいかもしれません。ですが、前年もその前も、定演の演目の中から自由曲を選ぶことができず、定演が終わってから自由曲を決めてコンクールに臨むというドタバタが続いていました。
「ぐるりよざ」を見つけてきてくれたのは、たぶん1年下の若月君(Tuba)だったと思います。最初は、合唱が入っているのはさすがに邪道では、と感じましたが、一方で、当時、東海大会出場校の中では愛工大名電(当時は男子校)に次いで男子学生が多かった我が校に相応しい曲だとも思いました。前年に初演されたばかりの新曲でしたが、私たちは新曲好きで、3年の定演は一番古い曲でもオルフの「カルミナ・ブラーナ」でしたし、保科洋の「澪明」も1989年に作曲されたばかり、そして3部は1985年に作曲されたダウニングの「管楽器と打楽器のための交響曲」でした。音源が限られていたことも、足かせとは感じませんでした。そもそも誰かの演奏した音源を聴いて曲作りをするのではなく、スコアを読み込んで自分たちで解釈し、イメージを作っていくスタイルでした。
当時のメンバーとしては、長野県を代表するに相応しい顔ぶれだったと今でも思います。例えば、2年冬のアンサンブルコンテストでは、クラリネット8重奏とサックス4重奏が東海金賞、トランペットは3年生にも2年生にもそれぞれ個性の違う実力者が複数いて、3年生が足りないパートは2年生が支えてくれて、といった感じでした。ですから、東海出場ミッション達成の最後のパーツが、小林泉先生だったのです。前任の山岸松夫先生の時代には、コンクールの曲も含め、曲作りは学生指揮者を中心に行ない、山岸先生には本番が近づいてから振っていただく形でした。
私も学生指揮者になった時点では、その覚悟でいましたが、泉先生が着任されてからは泉先生に振っていただく曲は泉先生に曲作りをお願いすることになりました。私も曲作りの負担が軽減され、おかげで無事に大学に合格できました。その意味でも、今の私があるのは泉先生のおかげだと感謝しています。
前年から「ぐるりよざ」に取り組んでいたこともあり、コンクールの課題曲では歴代屈指の難曲「斜影の遺跡」に挑戦しました。班長の石黒君(Tp)のくじ運がよすぎて、県大会はトップバッターの演奏になってしまいましたが、それでも普段どおりの演奏ができれば突破できるだろうという感じでした。
「ぐるりよざ」の1楽章から3楽章に繋げるカットについては、当初から作曲者の伊藤康英先生の指定があったわけですが、そのままでは制限時間を超過してしまうかもしれないということで、東海大会に向け、最終的に1楽章の13回の変奏の(よりによって)13回目をカットすることになりました。また、最後のコラールは本来はフォルテかフォルテシモだったと思いますが、はじめのワンフレーズは一旦音量を落として響きを効かせようということになりました。泉先生はこうした曲の解釈やカットの仕方の変更など、伊藤先生に直接連絡を取り、何度も確認されていました。作者から見れば「暴挙」と思われかねない変更でしたが、伊藤先生にも承知していただいた上で、東海大会に臨みました。
その東海大会では、伊藤先生がわれわれの次の順番で、母校の浜松北高校を指揮して新作「吹奏楽のための《北海変奏曲》」を演奏されるということで、舞台袖で待機されていました。泉先生と一緒に伊藤先生にご挨拶させていただいた記憶があります。泉先生からは後に、伊藤先生から「コラールのところ、あんなに落とすとは驚いた」といった感想をいただいたと伺いました。
本番の演奏は、課題曲の冒頭、最初の1小節目から「いつもと響きが違う!おかしい!」と感じながら、自分の出番が来るまで20秒近くジリジリと待たされ、吹き始めてからも随所に違和感を持ったまま、最後のトランペット・ソロをまさかの石黒君が外して終わり、「ぐるりよざ」では自分も最後のハイトーンがまったく出せず、「これで終わりなのか。。。」と悔いが残ってしまいました。このメンバーでもっと長く続けたかったとも思いましたが、色々な意味でここが限界だったとも思います。青春でしたね。
なお、余談ですが、それまでのコンクールでは、ワイシャツに黒スラックス・スカートという服装で出場していました。東海大会出場が決まってから、3年女子を中心に、さすがに恥ずかしいから何かブレザーでも揃えようという話になり、急遽業者に頼むことになりました。とはいえ、1ヶ月足らずの間に50着揃えられる生地は2種類しかないと言われ、片方は長野オリンピック招致委員会が使っていた若草色だったため、消去法で採用されたのが、今でも皆さんに使っていただいている青いブレザーです。歴史の一ページとして残しておきます。
